gotanbohemio's Blog

gardei y piazzolla

南米旅行記 Ⅰ:(1)

1970101日の午後。


小生は横浜港大桟橋に停泊した貨客船アルゼンチナ丸の船上にいた。行き先は南米アルゼンチン。家族と船上デッキで別れを告げた後、三等船客室に入るとブラジル移民の農園で桃果実酒生産に従事する成功者らしい60歳代の老人と小生より三、四歳ほど若者二人が同室になった。船は曇り勝ちの寒い午後に横浜港を出航すると一路神戸港に向かった。神戸港で更に乗客と貨物の積み込みがあり、次の目的地ホノルルへ。大平洋にでた三ヵ日あたりから船は大波にもまれ始めた。その日の夕食にありつく為にダイニングルームのテーブルに付くと乗客の姿が二、三人だけだった。テーブル係りは皆を一箇所の同じテーブルに付けと呼ぶ。そして、我々三人にご褒美に特別料理を出してくれた(残念ながらどんな料理だったか記憶に無い)。大部分の乗客は船酔いで食事どころではないらしかった。船は5日目にホノルルに入港しすると観光バスでダイヤモンド・へッドの頂上へ、午後にはワイキキの浜で歩いて行ったが、海水の透き透るのに驚く共に暑さにほどほどの体で船に戻った。次は目的地はサンフラシスコ。途中で他の船に抜かれるのをデッキで呆然と眺めていた。サンフランシスコ入港のハイライトはゴールデン・ブリッジを見上げながら軍艦島の傍を通りすぎる事だろう。ここでも観光バス(アメリカ人運転手の日本語ガイドに苦笑)でヨセミテ公園へ。次はパナマ運河へ向かった。途中メキシコのアカプルコ沖を通過。パナマの大平洋側のバルボアに着いたのは日本を出てから20日を過ぎていた。ここで運河入りの順番に可なり待たされた後、バルボア・ゲートに入る狭い水門ゲートに入り水量が上る共に船は脇をロープで結ばれた三菱製の小さな電気機関車で引かれながら次のゲートに進み、三段階繰り返しされた後に両側が断崖が迫る航路をしばらく行くとガツン湖に入った。大型の船も湖内は自力航する。運河に入り8時間後コロン地帯のミラフローレス・ゲートに着く。ここでもゲート入りは順番待ち、やがて運河の直ぐ脇のコロン港に入港。ここでは港横にあるフリーゾーン向けの積荷の降ろし作業で可なりの時間(丸一日)費やされた。下船して見たが港周辺は不気味かつ危険な雰囲気で直ぐに船に逃げ帰った記憶がある。いつ出航したのか気がついた頃は波高いカリブ海を西へ航海を続けていた。憂鬱な曇り日が続き、石油コンビナートが見えるオランダ領キュラソー沖を通過。やがて南米大陸の右肩を迂回するようにギアナ、ガイアナ、スリナム沖を通過すると大西洋に出たらしい。赤道を南に通過する日は船上で豪華なバーべキューが振舞われた時に在日勤務を終えたアルゼンチン大使家族と知り合った。彼達は同じ横浜からの乗客であつたが一等客で此方は三等客室だからめぐり合うチャンスがなかっただけの事。やがて船はアマゾン河を上流に向かう、行き先はベレンだった。ここには港などあるわけが無いのだが積荷を艀に降ろす作業が退屈するほど続いた、暑さと殆ど陸地の見えないアマゾン川の景色に飽きてしまい冷房の効いている図書室に逃げた。夕方も遅く船はエンジンの音を唸らせて半回転すると川の下流に航海を続行する。アルゼンチナ丸の航海は40日を過ぎてブラジルのリオデジャネイロに入港。時は19701110日(?)リベイラ岬を右側に見ながらグワナバラ湾のリオ港に到着。ここの入港の景色はおそらく世界一の美観だろう。船の目の前には聳える奇怪な岩山パン・デ・アスカール、近くの海浜はフラメンコ浜とずらりと並ぶ高級ホテルの建物。右手には遠くキリスト像が立つコルコパード丘。乗客の若い三世女性が誇らしげに見ろ「この景色の素晴らしさ」をと自慢していたのには少し閉口したがー。確かにこの景色には感動です。 入港後の午後には船客仲間とコルコバードのキリスト像の丘に タクシーで登った所から始るのだが、ここでカメラの広角レンズを落す失敗をやらかした。三日間停泊時は殆ど船内で過ごした(持ち金の節約です)。そしてサントス港到着。サントスに入港したのは朝早かった。乗船客はほとんどバスで2時間ほどの大都市サンパウロへ行くのか下船した。デッキで所在無く遠方に見えるサントスの海岸の砂浜を見ていた所へ一人の50歳絡みの邦人紳士に声をかけられた。(彼は日本からの船が入港するとサンパウロから自家用車で船内のロビー脇にある売店の日本品を買い付けに来るのだそうだ)閑そうな小生に「よければサントスの街を案内しますよ」と誘い声をかけてくれたので、喜んでお供することにした。岸壁にはブラジルではお馴染みの「カブト虫」が駐車されていた。乗り込むと後シートには若い娘さんが二人いた。氏は車を発車させながらさりげ無く後ろの娘さん達を紹介してくれたが、彼女らは挨拶以外は口を噤んでいた(日本語は苦手の様子)。「カブト虫」はパタパタというあの独特の音を響かせてサントスの海岸地帯のリゾート・ホテル街に入ると大学の横を通りラン園の脇で停車させると、小生の旅行目的や将来の指針を尋ねてきた。彼曰くアルゼンチンよりブラジルに来いと仕切りに薦めてくれた。サンパウロに来たら就職先も紹介すると彼の住まいの住所もメモに書きとめてくれた。(このメモは旅行中に紛失)今となってはほんの行きずりの人となった。翌日早朝、アルゼンチナ丸は最終港ブエノスアイレスに向かい出航した。波の高い大西洋を南下すること4日後ラプラタ川の河口から上流へと向かうとさすがの荒波も収まり夜半には小高い丘とモンテヴィデオ沖を通過していた.モンテヴィデオ街の夜明かり遠くに見ながらバーでサントスから乗り込んできたと思われる見知らぬ邦人がブエノスアイレスの巷で起こる“ならず同士の決闘”の話を疑い深く聞いていた。タンゴにガルデルの歌う「クリオージョの決闘」があることは知つていたが、あれは田舎の牧場で起きたテーマだろうし、いまどきブエノスに起きる格闘など信じられないと思うと考えていた。(この格闘物語はボルヘスの詩に出てくる)やがて夜更けになり船室に戻ったが、翌朝に着くまだ見た事も無いブエノスアイレスの様子を思うとほとんど眠りつけないまま夜は白々と明けてきたら、船はもうブエノスアイレスの港ダルセーナ・ノルテ(北岸壁)に入港していた。